石田三成男系子孫が紡がれた町**青森県板柳町**

石田三成
板柳町深味八幡宮
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「痰の毒だから要らぬ」「大志を持つものは最後の時まで命を惜しむものだ」

これは三成公が処刑される間際、白湯を所望した所干し柿を差し出されて、死の間際だというのに体を気使ったという逸話だ。

天下分け目の大戦で敗戦を喫するも、自刃することなく最後まで再起を諦めなかった忠義の男

石田三成の男系子孫は青森県へ逃れ、その血筋は紡がれていきました。

5大老5奉行システムで豊臣家の存続を願いながらも、幼い秀頼を一人置いていく大きな不安の中で亡くなった豊臣秀吉。

家康は秀吉が没すると直ぐに違法な婚姻などで自分の力を蓄えて不動の地位を得ていきます。

そして天下分け目の大戦関ヶ原合戦が勃発・・・結果は家康の勝利。

関ヶ原で勝利を収めた家康は領地をばらまいて豊臣の力を削ぎながら自身の存在価値を高め、合戦後3年で征夷大将軍に就任しました。

いつしか立場は逆転し、豊臣家を服従させるか亡滅させるか・・・といった具合に大阪の陣への舵がきられていく訳です。

結果、豊臣家は亡滅してしまったので豊臣の為を思うなら、三成公の行いは正しかったと言えます。

関ヶ原で敗戦した三成公は処刑され、父や兄は落城する佐和山城と運命を共にしました(妻は諸説有り)。

でも石田家は終りませんでした。

反乱の芽と言える三成公の子供たちは誰一人処刑されずに、大切にその血脈は守られたのです。

長男と三男は仏門に入り、次男は三女と共に津軽へ逃れたのです。

次男重成は秀頼の小姓として大阪城に詰めていた時に、同じく小姓だった津軽藩の嫡男信建と親交を深めていました。

元々信建の烏帽子親を三成公がつとめたり、南部家との確執が原因で津軽家が上洛に苦戦していた所、三成公が助け船を出してくれたりと津軽藩は三成公に大恩があった訳です。

そして津軽の関ヶ原はというと(; ・`д・´)

藩主為信(父)は東軍に信建(息子)は西軍につきました。

おや?真田家の犬伏の別れを彷彿とさせる話じゃないですか?(*’ω’*)

全くその通りで、なんといっても天下分け目ですからどっちに転んでもいいように藩主達は自分の家を守るために必死だった訳ですね(*ノωノ)

敗戦の混乱に紛れて信建は海路津軽に重成とその妹、辰を津軽へと連れ帰りました。

弘前城に密かに祀られた秀吉像と石田三成への恩義
夢のような10連休も今日でおしまい(/_;)さて、今年は弘前桜が見頃の連休前半に会津と山形へ旅行に行っていたの...

辰は津軽氏の城内に預けられ、北政所の養女として信建の弟で津軽藩2代藩主になる信枚の室になります。

重成は弘前から少し離れた現在の板柳町の深味に随行した家臣と共に杉山源吾と名を変えて隠棲しました。

津軽に逃れてきた時、重成は15歳程だったと言います。見つかったら自分はおろか妹の辰や津軽藩の人まで粛清された事でしょう。

そうした背景から重成杉山源吾として21歳で若死した事になっていますが、家康の養女である満天姫の輿入れによって側室に格下げされてしまった妹辰に追従し大館まで行き、最終的には壮年期まで生きたという話も残っています。

深味はいわゆる観光地化はしていません。

とても閑静な住宅街ですので訪問の際は住民の方に配慮する必要があるなと感じました。

青森県のローカルCMで力を入れたこともあったようですが、2019年7月に私が深味に行った時点で公式に訪れることが出来たのは重成の子孫が石田家の武運恒久を願って建立した深味八幡宮だけです。

駐車場も無い静かな神社です。

板柳町深味八幡宮 ご神体は豊臣秀吉の守神と伝わる
狛犬に馬頭観音に鳩?
本殿入口には三成公や重成に関する記事や読み物がスクラップされていて自由に読めるようになっている

深味八幡宮の近くに杉山屋敷跡があるそうなんですが、現在は別の方の私有地内だそうで訪問は自粛しました。

杉山屋敷跡には2本の赤松があり、松と松の根が絡み合う上に供養塔と地蔵が不自然に鎮座しているそうです。

それが杉山源吾、つまり石田重成のお墓だと言われています。

三成公の血を紡いだ重成公に葬ることは出来なかったからでは?と考えられています。

深味八幡宮備付の冊子 写真中央が次男源吾の墓と言われている

いずれにしても重成は板柳町の深味で子孫を残しました。

重成自身はひっそりと生きざる得ませんでしたが

嫡男吉成は津軽藩2代藩主信枚に召し出され、深味は杉山氏の知行所となります。

吉成は君主の娘子々姫を正室に迎え、叔母辰の息子で従弟の信義が3代藩主になると知行1300石拝領しましたそうです。

物凄い厚遇~(*‘ω‘ *)

三成公は横柄でへいくわい者で人望が無かったと言われていますが、津軽藩が三成の子孫にここまでしているのを目の当たりにすると、三成公の本当の人物像が伝わってくるような気がします。

小藩の津軽藩には不相応と評される立派な弘前城、そして弘前城の鬼門には曹洞宗三十三ヵ寺からなる要塞に成り得る禅林街が築かれているんですが、どちらも辰の輿入れの際に急ピッチで工事が進められたそうです。

万が一徳川に攻め込まれた際、闘う覚悟があったのでは?という話も残っています。

その禅林街の中の一つが杉山氏の菩提寺です。

そこに確かにある三成公の子孫の墓石には時代もはばからず「豊臣」と刻まれているのです。

杉山氏の墓石には豊臣姓が刻まれている「成」の字も

弘前城内に300年間も極秘で豊臣秀吉像を神として祀っていたのも驚きですが、こんなに堂々と豊臣と刻んで大丈夫だったんでしょうか?!

どこまで時代を駆け上がっても豊臣家の為に散った石田三成の子孫なんだなと三成公の血の覚悟を感じます。

杉山一族の墓所にたたずむ優しい顔立ちのお地蔵様

重成が隠棲した板柳町からは、弘前と同じように岩木山がきれいに見えます。

動乱を切り抜け、三成公の男子として唯一俗世を生きた重成

杉山氏は津軽藩の重臣として存続し続けたので、三成公の直系子孫と隠蔽するのは大変だったでしょう。

吉成の任務に蝦夷地の調査や監視などがありました。

その最中にアイヌ民族の蜂起シャクシャインの戦が起こり、吉成は侍大将を務め武功を上げます。

そして江戸幕府から恩賞を受けΣ(・ω・ノ)ノ!戦況報告の為に吉成は徳川の本拠地である江戸へ上京をはたしたのです!

もしかしたら石田=杉山なんじゃないか?という疑念は幕府も抱いていたのかもしれませんが、暗黙の了解だったのかもしれませんね。

三成公の孫が恩賞を受けて堂々と江戸城へ出向くなんて(杉山としてですが)そして三成公二女系のひ孫お振が徳川家光の側室になるなんて。

石田重成こと杉山源吾は三成公の男子として父の大志に対する葛藤もあったかもしれませんが、のどかな田舎で家臣と開墾する日々を過ごしながら偉大な父石田三成の血を紡いでいくことを選んだのかもしれません。

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