会津のシンボル鶴ヶ城周辺には、会津藩士の子息が通った藩校「日新館」や土方歳三もお参りした「近藤勇の墓」など歴史スポットが多数あります(*’ω’*)
時間の関係ですべて周ることが出来ないので、会津戦争の悲劇の象徴として語られることも多い白虎隊自刃の地、飯盛山へ行って来ました。
無料の市営駐車場は狭いので、すぐ満車になっちゃうので注意!(すぐ側に有料駐車場も有り)
GWという事もありツアー客の集団が居たのでゆっくりお参り出来ないなと思い、最初に白虎隊記念館へ(白虎隊関連施設として白虎隊伝承史学館もありますが今回は記念館の方へ)。
飯盛山には見学する所が沢山あるので人の流れを見て回る事をおススメします(;’∀’)
白虎隊記念館には日新館での様子から白虎隊自刃までのミニチュア模型や自刃した隊士の肖像などが展示されているほか、新政府軍の使った大砲や新選組近藤勇の「鉢がね」なんかも展示されていました。
記念館を出ていざ飯盛山へ!山というだけあって結構な石段です( ;∀;)健康な方なら良い運動になりますが、ちょっと登れないな( ;∀;)って方は有料のスロープで山頂付近まで行けます(登りだけ)
まず、自刃した十九士の墓前にお参りし、直ぐ側にも墓石があることに気づきました。
同じ白虎隊で会津戦争で命を落とした三十一士の墓だそうです。彫られている名前、年齢を心に刻むように見ていくと記憶が正しければ15歳とか16歳とか本当に少年たちです。
白虎隊は16歳から17歳で構成されていた予備戦力でしたが、彼らや女子で構成された娘子隊まで戦地で戦わなければいけないほど戦線は激化。
13歳から15歳の少年も年をごまかしてまで戦線に出たそうです。
ある女性が白虎隊と同年齢の我が子を探しに飯盛山へ入った所、喉をついて自刃した飯沼貞吉少年にまだ息があったことから助け出し、この悲劇が現代に伝わったという事です。
自刃の地、ここから少年の像の見渡す先に鶴ヶ城があります。
隊士たちは城下町から上がる煙を鶴ヶ城が落城したと勘違いして自刃したとも、自分たちでは足手まといになるから捕虜になる位なら武士らしく自刃したともいわれています。
ほんの150年ほど前の出来事です。明治維新から薩長史観の軍国主義、日本は世界大戦へむかっていきます。
世界大戦の若き特攻隊員しかり、少年たちは何を思ったのでしょう。
現在は「どう生きるか」ですが過去の男たちは「どう死ぬか」だと何かの読み物で読んだことがあります。
ほんの少し前は男らしく死ぬことが高潔なことだったなんて教育とは恐ろしいものですね・・・
ただただ当時の人の覚悟に感服するとともに、同じ年頃の男の子を育ててる身としては、現在の平和は多くの人の犠牲の上に成り立っている事を忘れず、我が子を大切に育てれる現代に深く感謝します。
飯盛山にはさざえ堂という世界で類を見ない二十螺旋構造の木造のお堂もあります!
こちらは時計回りにぐるぐると登っていくんですが、人とすれ違うことなく出口にでるという摩訶不思議な構造になっているそうです。(拝観はケチりました・・・)
さざえ堂は三十三観音像が祀られていて、登って降りてくるだけで巡礼できる仕組みになっているんだそうです(^^)
お堂の中にはこんなお札が沢山貼られているそうですが、古い建物に高確率で貼られていますよね☟(*^^*)☟
これは【千社札】と言われるもので、神社や仏閣に参拝に来た記念に自分の名前や住所を書き込んだ札で、江戸時代中期に流行したものです。
本来は宿泊参拝しなければ功徳が得られないところですが、神社・仏閣から御朱印をいただき許可を得た上でこれを貼ると日帰りでも同じ効果が得られるというのが始まりでした。
現代でもモラルの無い人が文化財に愛相傘や名前を書いてる人がいますが( 絶対しちゃ駄目(‘Д’))、似た?ようなものです。
旅行に来て俺様参上!といった事を江戸時代の人もしていたという事ですね(*^^*)
ですが、みなさんは決して無断でシールを張ったり、名前を書いたり、彫ったりしないでくださいね(; ・`д・´)
以上飯盛山ルポでした(‘ω’)ノ
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