戦って勝って領地が増えた\(^.^)/ワーイ
でも、自動的にお金は集まりません(/_;)/~~
※江戸時代には意味合いが違ってきますけど。
三英傑達はただ闇雲に戦ってばかりいた訳じゃありません。(当たり前ですが)
さて、今回は3人はどんな経済政策を取っていたのか⁉比べてみました(^^)
織田信長【関所の廃止】【楽市楽座】
豊臣秀吉【太閤地検】
徳川家康【関所の設置】【参勤交代】
織田信長の行った関所の廃止と楽市楽座
この政策には人と物の往来をスムーズにし、城下町での商売を気軽に行えるようにして城下町【つまり信長の】経済を発展させた事と
有力者の力【金】を削ぐ!!狙いもありました!!(゜ロ゜ノ)ノ
治安の維持の為に置かれた【関所】は【関銭】が徴収されていました。
関銭は道路の整備に充てられていましたが、有力な公家や寺などが【個人的に関所を設置】し、その関銭は彼らの重要な収入源になっていました。
また
これまで商売をする上で税金がかかっていた他に、有力な商人が公家や寺などに金を渡し、その土地で【独占的に商売できるといった特権】が与えられていました。
これを廃する事で信長は自国にお金が流れるようにし、公家や寺などに権力【金】を握らせないようにしたのです。
豊臣秀吉の行った太閤地検ですが
これは一定のモノサシで日本中の田んぼを計り、どれ位米が取れるのか調べ正確な石高を算出した大偉業です。そして【年貢米を図る枡も統一】しました。こらも大偉業です。
これまで目分量だったんですよ(°Д°)!!
これは本当に凄い事だと思います。
(主に石田三成が)
これにより豊臣政権は多いに潤ったそうです。
最後に徳川家康ですが、彼の時代には上の二人の下地もあり、絶対的な権力とお金が集まるシステムが出来上がっていました。
徳川の地盤は盤若とはいえ、いずれ弱体化した時、自分が豊臣を滅ぼした時のような事が起きないよう【大名の正室を江戸に住まわせ】これを逃さないため、また謀反を起こした大名が大軍を引き連れてこない為家康は【関所を復活】
ネットも携帯も無い時代、情報の無い広い日本を統括するのは至難の業だったと思います。
大名の正室と子供を江戸に置き
大名は1年置きに江戸と国元を行来させる。
この参勤交代は石高が高ければ高いほど、お金がかかりました。
大名行列はゆっくりと壮大豪華華麗に悠々と練り歩きます。
行きも帰りも石高に応じた威光を保ってお練りしなきゃいけません。
これ、実は謀反防止の為だけじゃないんですって!
はい、今回のテーマ経済です\(^^)/
大名に大金を使わせて(平均4000両程)
力【金】を貯めさせない事、お金を定期的に使わせる事も大きな目的のひとつでした。
先人の良いところは残したり、廃したり、復活したり、時々に応じているのが面白いですね(^^)やっぱり天下統一は3人の内ひとりかけても出来なかったと改めて思います。
コメント