10連休のしわ寄せで笑えない位詰まってしまった仕事を前に(゜ロ゜)三成様の頭が欲しいですぅぅぅ!と思った一週間でしたφ(゜゜)ノ゜
は~い、マイヒーロー三成公の第3段です(^o^)/
最近は三成公の再評価が進んでるけど、それでもまだ三成は狭量、融通が利かない、横柄だというイメージがついて回ります(/_;)カナシイ・・・・
「バカと話すと疲れる。」「はなから当てにしておらぬ。」などの三成語録に共感できる私は狭量なのかもしれないけど( ;∀;)
たとえそのような発言があったにせよ、それは威張ってた訳でもふんぞり返ってた訳でも無く、ただただ豊臣の為に奔走した仕事人間の厳しさで、三成自身は出世欲が無かったと言われています。
秀吉が褒美をとらせようとしたら「領地はいらないから、領民の税金を軽くして欲しい。」と言った逸話や、九州に33万石の領地を用意してやるという秀吉に対し「私が九州へ行ったら、誰が大阪で政務をとるんですか?」と出世を断ったという逸話も残っています。
関ヶ原敗戦後、落城した佐和山城に華美な物は一切なく、大変質素だったというのも有名な話ですね(*^^*)佐和山城が三成に過ぎたるものなんて本当に失礼しちゃう話です(怒)
他にも三成には【人を立てる】事も【人を思いやる】事もちゃんとできる人だった事を物語るエピソードが残っています。
■ 淀川反乱事件
時代は定かでは無いんですが、大雨で淀川が氾濫し今にも堤が決壊しそうだ(; ・`д・´)!という事があったそうです。
その時、三成の担当ではありませんでしたが、担当奉行も二の足を踏んでしまう位逼迫してしまうような状況に「やばい!城下町も城も水に飲まれてしまう!悪いがこの件一旦私に預からせてくれ!」と申し出ました。
「米蔵を開けて米俵を土俵の代わりにせよ!丈夫な土俵を作ってきた者にはその米俵を褒美とする!」と城下の者たちに告げると、普段米など口に出来ない身分の者が多かったため、皆喜んで土俵を作ります。
無事氾濫をせき止め、土俵もあっという間に出来て、事なきを得ました。
皆三成に大変感謝し、口々にお礼を言ったそうです。
すると三成は奢ることなく「これは秀吉公の指示である。私は秀吉公に言われた事をしたまで。」と主君を立て、もともとの担当奉行の面目も保ったのです(#^^#)
そして担当奉行に「応急措置は済んだが、本格的な工事は私では無理だ。後はよろしく頼む」としっかりフォローまでしたそうです。
徳川陣営による三成下げの情報操作に、元の家臣の嫉妬もあった事でしょう。
何百年もついて回ったイメージはそう簡単には払拭されないかもしれませんが、日本は先の世界大戦で敗戦し勝者が全てだという概念は今無いはずです。
会津戦争然り、勝てば官軍負ければ賊軍の勝者が正義という歴史にはほとほと矛盾を感じるなぁ。
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