甥っ子3兄弟を失い、老いゆく秀吉は何を思ったでしょう?まだこの時は頼れる重臣も健在で、自分は天下人で今は盾突く大名もいないけど、徳川家康には脅威を感じていたかもしれません。
三成や清正が全力で秀頼を守ってくれる!大丈夫・・・うん、大丈夫だ!
秀頼はまだ4歳、支えてくれる血縁者は居ません。
秀吉自ら消してしまいました。
現在の日本の皇室の男子不足より深刻な状況です。
秀吉は拾いを頼む拾いを頼むと、恥も外聞もなく無く徳川家康等に懇願しながら亡くなります。
はいはい家康が来ましたよ~太閤様今日は何の御用で?
ひ・・で・・よ・・り・・を・・頼む・・・秀頼を・・家康ぅぅぅ・・・
おいおい!めっちゃ弱ってるやんけ!!来たこれ!来た!
大丈夫ですよ~秀頼様はこの家康がしっかりお支えしますから~♪
秀吉が亡くなってから家康はやりたい放題(^^)たった2年で関ヶ原勃発!
家康が巧みに秀頼様の為にと大儀名分をふりかざし(たフリをし)領地をばらまいた為
関ヶ原終了後の豊臣秀頼は65万石の一大名に・・・
超豊臣恩顧の加藤清正は、家康の養女を妻に迎えているんだけど、家康の動向を見て何故気づかなかったんだろうか・・・文治派との対立で頭に血が上って東軍に加担した清正。
結局豊臣家は力を削がれた形になって家康に反発でもしたのか?毒饅頭で消されてしまいます(病死となってますが)
この時大阪城で一番発言力があったと思われるのが、豊臣家の亡滅に一役も二役も買った秀吉最愛の側室で秀頼のご母堂お茶々(淀殿)。
この女性に武家の妻の心得、武士の母の心得があったならまた違った歴史になっていたかもしれませんが、二度の落城を経験していて、一度目の落城で父を、二度目の落城で母を失っているにも関わらず、まったく武家の女としての危機感がありません。
秀吉のNO.1で秀頼のご母堂である事で傲慢だったと言われる茶々。
何故誰も意見出来なかったのか?意見するような智に長けた家臣はもはや豊臣家に居なかったのか?
家康は豊臣恩顧の大名を刺激しないように関ヶ原から時間をおいて秀頼の首を取りにかかります。
秀頼を上洛させよ
何で秀頼があんたに従わなきゃいけないのよ絶対に嫌
知らず知らずのうちに力を削がれてるにも関わらず依然プライドの高い茶々。
このようなやり取りの中、家康は豊臣の財産も崩していこうと秀頼に父の供養のために寺社の造営を勧めます。
関ヶ原から14年経った慶長19年(1614年)
方広寺鐘銘事件勃発
家康の勧めで方広寺に大仏を再建した際、鐘の銘文中に
「国家案康」「君臣豊楽」
の字句が。「国家案安」の字句は家康の名を二つに割り、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を示唆していると家康は激怒
大阪城からは出てもらって茶々は江戸に住み、秀頼は参勤交代で許してやるよ
ばっかじゃないの?そんなののめる訳ないじゃん。つうか片桐何やってんの?!あいつマジ使えねー
こうして弱体化した豊臣を、何とか徳川の時代に存続させる為に奔走した重臣片桐且元を裏切り者扱いし、いよいよ弱体化しきったところで
大阪の陣が勃発
必死に真田幸村や後藤又兵衛など浪人をかき集めるも籠城戦の一点張りで彼らの主張を無視。
秀頼を出陣させる案も却下。
大阪城は安全なの!そんな危ない所に大事な大事な秀頼をやれる訳ないでしょ!あんた達、ちゃんと私達を守りなさいよ!
本当に暗愚なまでの親ばかである。
結局大阪城の堀は埋めたてられて要塞としての機能を失い籠城戦すら出来なくなりました。
最後まで秀頼を出陣させず、徳川家康の孫である嫁の千姫に望みを託すも叶わず、もはやこれまで。
茶々三度目の落城である。
一度目の落城で父を失い、二度目の落城で母を失ったこの女性は、三度目の落城で自らとともに、どうしても死なせたくなかった大事な秀頼と豊臣家の全てを連れて散っていった。
秀吉がもっと血族を大切に基盤を作っていたなら、茶々がもう少し利口な女性だったなら、豊臣家は存続していたかもしれない。
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